私の中で何かがつながる

映画『ビフォア・サンセット』からの1シーン
セリーヌ:10代の頃ワルシャワに行ったの。共産主義の時代。共産主義は嫌い、、、。
ジェシー:うそだろ。
セリーヌ:本当よ。
ジェシー:冗談だよ。
セリーヌ:とにかく、向こうで面白い経験を。数週間後ある変化に気づいたの。街は暗くて灰色、でも頭の中は研ぎ澄まされて、新しい考えが次々と浮かんできた。
ジェシー共産主義的?
セリーヌ:あのね、私は違う!
ジェシー:続けて。
セリーヌ:シベリア送りよ。初めは理由がわからなかったけど、ある日ユダヤ人墓地を歩いてて気がついたの。ここ2週間の生活は以前と全く違うって。言葉はわからないし、買うものも無いし、広告も無い、することといえば、散歩と日記を書くだけ。頭が休まり、物質欲が消えて、気分が高揚した。心穏やかで”何か買わなきゃ”という脅迫観念が無いの。最初は退屈に思えたけど、じき自由を感じた。面白いでしょ。



小沢健二著『うさぎ!』第5話からの抜粋
トゥラルパンのいる銅山の国、平和市についたきららとうさぎが、小さな商店街の角を曲がった所で、何かを見て、驚いています。「あっ!」「すごいっ!」
何を見て驚いているかというと、、、、商店街の通り、というか、商店街があるはずの通りには、見たこともない風景が広がっていました。「うわぁ」そこには、列車の窓から突然に青い湖が見えるように、ただ静かな、水色の風景が広がっているのでした。「あれまあ」
その商店街の看板や広告は、すべて水色の紙で覆われていました。その色が。銅山の国の神秘的な空の色とあわさって、平屋と二階建ての混じった通りが、ひとつの大きな水色の風景に見えているのでした。
(中略)
このめずらしい風景を子どもも、老人も、みんなが楽しそうに訪れているようでした。打楽器をたたく路上演奏家や、それにあわせて踊る人たち、大道芸をする人、果物や飲み物を売る人などもいます。でも、それはまったくうるさい場所ではなくて、むしろ音楽がよく聞こえる、静かな場所なのです。
トゥラルパンは、灰色のつくり出す世界は、眼が疲れる世界だと思っていました。あらゆることが、あらゆる場所に書いてあって、書いてあることを下にまた小さい文字で何か書いてあって、裏をめくるとさらに小さい文字で、何かびっしり書いてある。ふう、疲れる、と空を見上げようとすると、そこにも大きな文字で、スニーカーかハンバーガー屋か銀行の名前が書いてある。そんな世界でした。

トゥラルパンは、眼というのは、「外から入って来た光が網膜に映像を映す器官」などではなくて、何かにふれる、何かにさわる、触手のようなものだと思っていました。何かにふれたり、さわったりするだけではなくて、それは、何かに向かって祈ることもできる、特別な器官でした。人はその眼で、空に祈ったり、女神の像に祈ったり、大きな木に祈ったりして、生きてきました。
そんなすばらしい器官が、灰色のつくり出す世界では「新しい商品名をおぼえさせられる穴」くらいのものに成り下がっている。この女の子は、そんなことを考えていました。
水色の紙でおおわれて、看板や広告の文字がなくなった商店街は、とても静かな場所でした。眼という「触手」が、普段どれだけの、とげのような刺激を与えられているか、この水色の風景の中に立った人にはわかりました。「人がやってきて、人に会うこと。話をすること。友だちになること。毎日に生活の中で、何となく気がついているけど、言葉にできないことを、言葉にして、気がつきあうこと。」そんな場所になるようにしよう。そう話しながら、トゥラルパンと山あらしと山あらしの家族や友人たちは、この水色の風景をつくったのでした。

ビフォア・サンセット [DVD]

ビフォア・サンセット [DVD]

我ら、時?通常版

我ら、時?通常版